2017 年5 月16 日研究室(於:慶應義塾大学 三田キャンパス)17:00 ~
1.アメリカ文学との遭遇
山根「最初に自伝的な部分からお伺いさせていただきたいのですが、巽先生はどのようなプロセスでアメリカ文学を専攻されたのでしょうか?」
巽「私は父親(巽豊彦)が英文学者でで19世紀のヴィクトリア朝の中でもキリスト教文学を専門にしており、とりわけジョン・ヘンリー・ニューマン研究では我が国の第一人者でした。私自身もカトリックとして生まれ育ちましたから、上智大学に入るのも自然だったし、やはり最初はイギリス文学をやろうかなと漠然と思っていましたね。でももう周囲に、当時人気だったグリーンもジョイスもやっている先輩がいるし、それでジョイス以後ということで、ベケットを卒論に選んだ。Waiting for Godo t(1952年)って高校時代から大好きだったから。たまたま高校三年のときに四谷の小劇場で「ゴドーを待ちながら」の上演を観たんですよ。日本人学生の劇団がやっていて、しかも着物の女性まで登場するというオリエンタリズム風味のゴドーだったんです。いまにしてみれば、やりたい放題の演出だったんですね。でもそれが良くて、こんな面白い演劇の作者だったらと思って、ベケットと安部公房の比較文学研究を卒論のテーマにしたんです。指導教授はミシガン大学大学院で文学博士号を取られ、それが『疎外の構図』(新潮社, 1975年)という邦訳でも刊行された―のちに上智大学の学長になられる―比較文学者ウィリアム・カリー先生でした。だけど大学院入るときに、第四代日本アメリカ文学会の会長も務められた刈田元司先生に専攻の変更を勧められたんです。先生は、最初の専攻は中世英文学でしたが、若い時にジョージタウン大学に留学して、やがてアメリカ文学研究では学問的にも学界的にも権威になられていた。その刈田先生とそれよりほんのちょっと年下のうちの父親が一種のコンビとなって上智大学文学部の英米文学双方をまとめあげていた、そういう時代があったんです。まぁピーター・ミルワード先生に言わせると、「刈田・巽両教授は双子の様だった」ということになる。で、どうも刈田先生が、父への友情なのかどうなのかよくわからないんですけど、大学院に入ったら私の面倒をみると決めていたらしい。それだと自分の専門はアメリカ文学というものになるのか、と。じゃあどんなものをやればいいのかっていうときに、「比較文学やりたかったんですけど」って言ったら、「いや比較文学というのは学問的なディシプリンとしてまだまだ日本じゃ通用しない。比較文学が専門というのはディシプリンとして弱い。しかも生きている現代作家は評価が定まっていない。死んだ作家をやりなさい」と指導されたんですね。それが1978年のことです。」
2.SF
山根「私自身は、きっとSF の流れで先生のご専門がポーなのだろうと思っていましたが。」
巽「アメリカ文学史上の死んだ作家のうちでは、もちろんホーソーンやメルヴィルがいるわけですけど、先輩たちが手掛けていない作家としては、ポーならよく知っていた。ポーはSF とも関係あるし、だから読んでいた。もちろん、それもこれも後付けの理由にすぎません。その時点では、なにしろ消去法の思考法ですからね(笑)。まだ、論理的にはいろんなことが繋がっていないわけですよ、頭ン中でバラバラで。だけどその頃、ちょうど大学を卒業し、大学院に入る78 年といえば、海の向こうでは前年に封切られていた『スター・ウォーズ』が、日本で公開された年です。で、大ブームになるわけ。それまで、早川書房の『SF マガジン』と奇想天外社の『奇想天外』しか商業的なSF 雑誌はなかったんですが、そこに徳間書店という、のちに宮崎アニメで大成功する大手が、『SF アドベンチャー』という雑誌を創刊して殴り込んでくるわけですよ。1979 年ですね。第二の角川書店みたいに言われて、原稿料も良いというので、日本の作家が早川書房からドッとそっちへなびく。当時の日本SF 界には月刊商業誌が三つもあって、小さい書評誌もあった。だから、私みたいな青二才のところにもたくさん原稿依頼が来るようになった。更には同年、NHK 教育テレビの『若い広場』の座談会への出演依頼まで来た。司会が作家・評論家の石川喬司氏で、のちにサイエンス・ライターとして名を馳せる金子隆一氏も同席していて緊張しましたけれども、こういう経験を経て、大学院での研究も根本的に考え直すようになりました。ポーはあくまでアメリカ文学史上で再定位しようと考えたんですが、一方で北米の現代批評理論が隆盛を極めており、それをSF 研究が積極的に導入しようとしているのも知るようになった。」
3.SFと左翼思想
山根「冷戦という文脈において、SF とマルクス主義批評が共振する様子はとても興味深い点です。」
巽「もともと、マルクス主義批評は必ずユートピアニズムを語ります。ユートピアの文学史っていうのは、SF だらけなんです。それで1973 年に、ダルコ・スーヴィン、フレドリック・ジェイムソン、それからもう一人トロント大学のピーター・フィッティングっていう三人のマルクス主義系批評家が結託して、北米最大のSF 学術誌Science Fiction Studies を創刊する。いまでも年三号出ていますが、私がその雑誌に気づいた当時はまだ1979 年だったので、バックナンバー全部くださいと言えば注文すれば全部揃えられるくらいの号数だった。それでそれらを集めて読んでみると、やっぱり、結構ハードな論考がいっぱい載っている。ロシア・フォルマリズムを使ってSF を読むとか、マルクス主義批評を使って読むとか、あと記号論や構造主義を使って読むとか。その頃ですよね、デリダの名前もちらほら出始めたのは。ジェイムソンはもちろん、ロバート・スコールズやパトリック・パリンダーもまずはジョイスやコンラッドなどモダニズムをきちんと学んだ英文学者でしょう。ダルコ・スーヴィンももともとはブレヒト研究で知られた演劇学者。だから、「あぁ、ひとまず伝統的な作家研究から出発しながら、SF を媒介にして文学批評や文学理論を活性化するっていうのが結構先端的なんだな」と実感したわけですよ。そのころ、1982 年に第21 回日本SF 大会(愛称:TOKON 8)を一緒にやらないかというお誘いが来ました。その時の実行委員会のメンバーというのが、いま作家になったニコラ・テスラの専門家の新戸雅章さん、当時から編集者でのちに評論家になった志賀隆生さん、そして非英語圏のSF、それもソ連とか東欧のSF に詳しく、読売新聞の記者として活躍し、いま大妻女子大の教授になっている波津博明さんといった人たちです。ロシア・東欧文学研究の権威・沼野充義氏も当時から仲間だった。そういう経緯で、「じゃあこのメンバーが集まれば何か面白いことができそうだから、ちょっと堅めの雑誌でも出しますか」という話が出て、バフチンとかロシア・フォルマリズム関係の全集出している左翼系の出版社、神保町にある新時代社に企画を持ち込み、『SF の本』っていうタイトルの季刊評論誌を創刊するんですよ。82 年のTOKON 8 が終わってすぐ創刊号を出して、86 年くらいまで続いて9 号出たかな。私が1984 年に留学したこともあって、休刊しちゃいましたけど。」
4.『家畜人ヤプー』(1956 年~ 1970 年連載、初版1970 年)について
山根「そういえば、先生のお気に入りの日本SF に、沼正三という作者名で発表された『家畜人ヤプー』があります。この作品は戦後、そして冷戦期における日本人の視点をかなり特殊な仕方で提示していますね。」
巽「『ヤプー』というのは、疑似科学の極致なので、ハード・サイエンスにも相当詳しくないと書けないところがある。だから真の作者探しもいまなお続いてるんだけど、私の八ヶ岳の別荘地仲間である裁判官の倉田卓次さんはその最有力候補のひとりですね。そういう偉い人が真の知識人の密かな愉しみとして、ハードSF 風味のSM 小説を書きはしたけれども、版権は他人にあげてしまっているわけだから、これ以上にマゾヒスティックな知的快楽はないわけだ。しかも欧米に対しては一番の嫌味なメッセージを発している。お前ら、どうせ日本人のこと家畜と思っているんだろっていう(笑)。」
山根「ずいぶん痛烈な嫌味ですよね(笑)。」
巽「そうそう(笑)。人類じゃなく家畜と思ったからこそ原爆落とせたんだろうっていうか。『家畜人ヤプー』にはミリオン出版の方から出ている分厚い続編があるんですよ。そこには、家畜というのは口でどんなに言ってもわからないんだから、殴って体で覚えさせなきゃいけないっていう理屈が出てくる。日本人に戦争をやめさせるには、どんなに口で言ってもわからないだろうから、とにかく原爆投下して体に痛みを覚えさせつつ調教するしかない―そういう発想が披瀝される。それをなんと日本を代表する知識人が書いてしまったのが凄い。仏訳はすでに評判になっていますが、仮に英訳されたら、北米白人の人種的優越思想をえぐりまくるでしょう。」
5.80 年代のリーディング・サークル
山根「先生が大学院生時代にSF からディコンストラクションへと関心を広げられたのは、どのような経緯からですか?」
巽「ひとつには、先にも述べたように、最先端のSF 批評から自然に構造主義以後の理論に馴染んでいたことですね。専門は一応英米文学史上の作家研究に定めたうえで、趣味の SF の新しい読み方を追いかけていたら、必然的にマルクス主義批評以後、構造主義以後の批評的言説に遭遇したわけです。あともうひとつ肝心なのは、そのころ日本橋丸善の店頭に立っていて現在はご自身でイオス・アートブックスという美術書専門店を営んでおられる井上憲彦さんが、当時はまだ会ったこともないけれどその令名は知っていた冨山太佳夫、高山宏の両若手英文学者を引き合いに出して、「こないだ富山先生この本買っていかれましたよ」とか、「高山先生これ買っていきました」とか、いまでいうAmazon.com 並みに薦めて下さったことです。その影響もあって、どんどん読まなきゃならない本が増えていきました。やっぱり丸善は品揃えが良くて、ディコンストラクションのアメリカの第一線、ジョナサン・カラーとバーバラ・ジョンソンの本も、そんな経緯で必読書になったんですね。だからThe Critical Differenc(e 1980年)は、出た年80 年にすぐ買って読んでいる。そのなかにポー、ラカン、デリダを論じた名論文“The Frame of Reference: Poe, Lacan, Derrida”が入っていたわけで、それはポーで修論を書いている頃だったからバッチリ役に立ったものです。それから、ジョン・カーロス・ロウですよ。いまでこそ冷戦批評やヴェトナム戦争研究で知られていますが、彼もThrough the Custom-House(1982 年)で19 世紀アメリカ文学を全体的にディコンストラクションするという構想を提示しています。その著書は、アメリカン・ルネサンスから始まり、最後はヘンリー・ジェイムズで終わっている。そこにも、卓抜なポー論が入っていますよね。だから、「これは面白い流れだな」と思いました。日本英文学会の新人賞に応募してみようという野心にも火がついた。アメリカ文学史の方でも、SF 史の方でも、構造主義以後の方法論で読み直しがなされているんだなっていう現状が段々分かってきた。1980 年以前には、それまで趣味のSF、専門のアメリカ文学ってかたちで離れていたものが、理論の勃興によって段々近づいてきたのはスリリングでした。」
6.アメリカ留学
山根「巽先生にとってアメリカ文学がより接近したのはご留学中のときかと存じますが、そのときのことについてお聞かせください。」
巽「日本での修論はね、ポーとカントを類推する図式だけでちょうど80 年2 月に書き上げたんですが、まさにそのときにジョエル・マイヤーソン編のStudies in the American Renaissance っていう年刊論文集が出て、ポー学者グレン・オーマンズがまさに同じ図式の論文を寄稿してたんです。「あぁ、じゃあポーとカントって私が思いつきでやっていたちょうど同じ頃、海の向こうで専門家が同じことやってたんだ、案外この路線は悪くないんじゃないだろうか」って思ったんですよ。だから、そういう批評理論をもうちょっと突きつめれば、先端的なアメリカ文学研究にもSF 研究にも有益かもしれない、それどころか自分自身も何か貢献できるかもしれないとごくごく単純に考えたんです。まぁでも 1980 年代ですから、SF はあくまで趣味だからなぁみたいな構えは、まだありましたよ。だけど、アメリカ文学研究とSF 批評が海の向こうでそうやって盛り上がっているなら、いまアメリカ留学したら面白いかもっていうふうに思ったのは事実で、それがフルブライト奨学金に応募したひとつのきっかけですね。1984 年の留学後、初めてMLA に出席するんですが、そのときには、同じフルブライターとしてコーネル大学に留学していたジョナサン・カラーの訳者・折島正司さんご夫妻に車出してもらって、イサカからワシントンD.C. へ行きました。そのときにSF 学の権威ダルコ・スーヴィンが来ているのを聞きつけて、私は直接会いに行ってホテルでインタビューを録りました。それが運よくSF Studies に載り、いまはウェブで読めます2。」
7.辻褄が合っていく
山根「留学やインタビューを通じて、文字通り先生はアメリカ文学との距離を縮められたのですね。」
巽「非常に面白かったのは、留学中に全く新しいものを吸収したっていうよりは、それまで日本では体系づけられることなくてんでばらばらに読んでいたものが、大きい体系の中に組み込まれていたんだということを発見したことですね。繰り返しますが、それまで私にとっては趣味のSF と専門のアメリカ文学とは別物だったわけですよ。全然離れたところにあった。だけどそれが、そうだなぁ、85 年のアメリカにおけるアカデミズムの動きとサイバーパンクによってどんどん距離が狭まっていった。今年の流行語でいえば「神風が吹いた」とでも形容すべきなのかな(笑)。ヘンリー・ルイス・ゲイツ教授の黒人文学クラスを取っていたとき、黒人 SF 作家サミュエル・ディレイニーの大ファンなんですって言ったら、じゃあコーネル大学にディレイニーを呼ぼうということになって、ゲイツ教授とジョナサン・カラー教授が力を合わせて彼を 86 年の春学期の一学期間、人文科学研究所の講師にしたんですよ。このときディレイニーはサイバーパンクをテーマに選び、ジョン・ヴァーリイとウィリアム・ギブスンの精読を行なったので、私はその授業にも出席しました。のみならず、ディレイニーがコーネルで一般公開の講演をするっていうときに、扱ったのがダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」(“A Cyborg Manifesto”[1985 年])だったということは大きいですね。こっちはハラウェイも「サイボーグ宣言」も知らないうちに、ハラウェイを批判するっていう講演を開いちゃったわけだ。まさかその論文が多くの批判にも耐え抜いて、のちに文化研究の聖典になるなんて、予想もしなかった。」
山根「批判からハラウェイに入っていったわけですね。」
巽「彼(ディレイニー)には留学中何度かインタビューしてるんだけど、ひとつはゲイツ教授の勧めでテープ起こしをしたら、何と 1986 年のうちに脱構築の牙城だった批評理論誌 Diacritics(16.3)に掲載してもらえたんですね。もうひとつは、勃興中のサイバーパンク運動を承けて北米の仲間たちと発刊した SF 批評誌 Science Fiction Eye の第 3 号(1987 年)に掲載されました。いずれも現在ではウェズリアン大学出版局から出ているディレイニー自身の選集の一巻に収められていますから容易に読むことができます3。ウィリアム・ギブスンについてもインタビュー集大成(Conversations with William Gibson [UP of Mississippi,2014 年])が出たんですが、私のもの(“Eye to Eye: An Interview with William Gibson”)が巻頭に来ている。最も初期だったらしい。次がラリー・マキャフリーによるインタビューですね。とにかく、アメリカ留学中には新旧問わず好きな作家たちにはずいぶんインタビューしましたよ。」
8.「言語を語る」
山根「その他にも、特にポール・ド・マンを巽先生はご研究されていて、彼がベルギーからバード・カレッジに行く段階で、ハンナ・アーレントたちと出会い、そこで自分の過去を清算していく経緯を照射されたことがありますね。そのことは先生のもう一つのご関心、ベンジャミン・フランクリン以来のアメリカ歴史改変主義とどのように関わるのでしょうか?」
巽「ド・マンは自分の過去をひた隠しにして、ルソー的なリボンの物語のなかに消化したんですよね。それこそ、フランクリン的に言えば間違いだらけ、誤植だらけの人生を修正するのに脱構築が不可欠だったんじゃないかな。何しろ重婚していますから(笑)。」
山根「もちろんファシズムとの関わりもあり。」
巽「その過去を絶対的に隠し通していこうとするうちに、そのぶん理論が抽象度を増したわけですね。その抽象度の高さが、構造主義、記号論が勃興したのちの北米における知的風土にぴったり合った。その前に流通していた現象学の影響も初期のド・マンには見られるんだけど、1970 年前後を境にそれを完全に、意識の問題じゃなくて言語の問題に転換してしまう。その転換を分析した名論文“Renunciation”4 で水村美苗さんは、文学のふるさとから魑魅魍魎のような世界に連れてこられたと言っている。つまり、自分が心の故郷だと思っていた人生であるとか内面であるとか、苦悩であるとか、そういうものが出てくる文学っていうのはどこへ行ってしまったのかとね。私が『盗まれた廃墟: ポール・ド・マンのアメリカ』(彩流社,2016 年)で書いたのは、実は、水村さんが心の故郷と考える「文学のふるさと」はむしろ日本近代文学が構築した世界であって、ド・マンがやがて脱構築の文脈で復活させる修辞学は、じつは日本近代文学よりはるかに古い伝統に即しており、もともと魑魅魍魎みたいな批評言語が乱舞する世界だったということです。実はレトリカル・リーディングの方が歴史は長いわけですよ、エーリヒ・アウエルバッハとかね。レトリカル・リーディングが復興したのは、亡命文学者たちが人生そのものを語るというより言語を語るようになったからじゃないかな。抽象化の極みですから。
9.冷戦の「起源」
山根「言語を語るといえば、私の好きな先生のフレーズがありまして。「南北戦争時代の名優ジョン・ウィルクス・ブースが引金を引いたデリンジャーの銃弾は、一八六五年から一九六三年へ至る約百年間を一瞬にして飛び越し、一九世紀から二〇世紀へ至る扉そのものを一気に撃ち抜いたのである。」(『リンカーンの世紀』,青土社,245 頁)と先生は述べられていますが、これは過去と現在、政治と文化の接続という意味では、冷戦期以降の新しい学術的アプローチとして勃興したニュー・アメリカニスト的表現かと思います。」
巽「典型的ですね。その方向は、『「白鯨」アメリカン・スタディーズ』(みすず書房,2005 年)のなかで更に深めています。今日の我々は米ソ冷戦をそれ自体として提出しているけど、実はもっと深い層があるんじゃないか。例えば9・11 同時多発テロが起こった後に、アフガニスタン空爆ですぐにアメリカはすぐイギリスと手を組んだじゃないですか。するとすぐさま、アメリカのメルヴィリアンは、これってMoby-Dick(1851 年)の第一章、神の仕組んだ壮大なドラマのなかで言及される、“bloody battle in Affghanistan [sic]”そのものだと指摘するんですよね。もう一つの壮大なドラマは大統領選の大接戦ですが、その真ん中にinterludeのようにして、イシュメルという男の捕鯨の旅が差し挟まれる。自分の旅は壮大な神の演し物の、幕間の寸劇みたいなものだと自己卑下して語っている。ここで振り返ってみると、“bloody battle in Affghanistan”とあるのは、1830 年代、19 世紀前半の時空で既にもうアフガニスタンの戦争の起源があって、イギリスとロシアがインドを求めて南下し、その途中のアフガニスタンにイギリスの領事館が駐在していたときのトラブルに端を発している。イギリス兵の態度が非常に悪くて、アフガンのなかで悪さをしたため、原住民が怒って領事館を襲い、イギリス側は一回撤退したりしている。そのあと第二次アフガンや第三次アフガンが繰り返されるんですけど、そのたびにイギリスが負けているんですよ。だから、9・11 からアフガン空爆に至るまで、もう160 年くらいイギリスがアフガンに恨みつらみを抱き続けていた。19 世紀にはいまのような米ソはないけど、英露の対立があるんですよね。イギリスとロシアがインドを求めて闘争しているベクトルを、メルヴィルが非常に嗅覚鋭く、Moby-Dick ですくいとっているのが面白い。冷戦、冷戦って米ソが始まりみたいだけど、実はMoby-Dick で語られている英露を原型として現在に至るまで、ワイ・チー・ディモクのいう「深い時間」が流れているんじゃないか。」
10.半球思考と冷戦
山根「いかにアメリカ建国期から現代に至るまで通底するテーマがあるとはいえ、冷戦期の想像力がアメリカ文化史や同時代の日本の文化史において例外的な部分はあろうかと思います。その点はいかがですか?」
巽「冷戦へ至る道を考えるときに不可欠なモンロー・ドクトリンを、我々はずっと科研の共同研究でやっているわけですけど、それはやがてマニフェスト・ディスティニーやトゥルーマン・ドクトリンなど何度も書き換えられている。とくにシオドア・ローズベルト以降もはっきり出てくる姿勢は、南米をどうするかなんですよね。東半球は西半球に手出しするな、その代わりに西半球、つまりアメリカも東半球に手出しはしないけれども、もし東半球が北米ならぬ南米に手出しをするようだったら、それは容赦なく、南米を守るという名目でその地域を徹底支配するっていう態度です。俗に孤立主義外交と呼ばれるモンロー・ドクトリンの起源は1823 年。その時は単純に地政学的な東西半球ということだが正しかったって本音がね。それは神の視点に立っているっていうことで、自分自身が善悪を明確に分けることができるっていう自信に貫かれている。正しいことと間違ったことも明確にできるっていう自信が、アメリカの歴史にとって都合の悪いことはどんどん消してしまいたいっていう歴史修正主義の思想に繋がる。アメリカ敗戦に終わったヴェトナム戦争も敗戦とは認めず「間違った戦争」だったと見てるんだから。日本だと、歴史教科書を考える会とかはすごいスキャンダルになるけど、アメリカの場合はリヴィジョニズムが当然のように横行している。」
山根「歴史修正って、良いことのように言われますね。」
巽「それはフランクリンの時代から続いてきているわけですよ。今まで話したことは全て、あくまで私自身が日本でSF とかアメリカ文学とか長く読んできて、それで批評理論を、留学を挟んで実感した結果のことです。メルヴィルの名作『白鯨』を生み出した国が、いまやアカデミー賞受賞映画『ザ・コーヴ』の反捕鯨運動に沸いているのも、まさにアメリカニズムでしょう。しかし、そこへ至る家族史的ないきさつを少しだけ話しておくと、うちは父方の祖父、巽孝之丞が東銀の原型の横浜正金銀行のロンドン支店長だった一方、母方の方は、曽祖父母がボストンで学んでいるっていう事情があるんですね。曾祖母・川瀬富美子がタフツ大学の生物学部で、曽祖父・川瀬元九郎がボストン大学の医学部。そこでドクターの学位を取り、1900 年に帰国したあとには、聖路加国際病院の創設に関わっている。だからアメリカっていうのは、知らないうちに、小さいうちから刷り込まれていた。私は恵比寿の母方の祖父母の家で育ったわけですけど、これは慶應義塾がアメリカ人講師を住まわせるためにつくった屋敷を曽祖父母が1910 年くらいに買い取ったんですね。だから、小さいときは何も意識してなかったですけど、もともとカトリックの家庭だし、キリスト教も当たり前のことで、西洋的なもののなかに、知らず知らずのうちにアメリカ的な文化が根付いていた。
巽「当初はキリスト教会の支援で留学させるのが、時代の風潮だった。そして、あとからボストンに来た川瀬元九郎を紹介され結婚する。この夫婦がとにかく世紀転換期にアメリカにいたっていうことは、米西戦争以後のアメリカがこれから帝国にならんとする時代ですから、実に興味深い。2 人は非常に楽しかったんじゃないかな。アメリカ文化から学んだものが非常に多かったようなんです。夫婦で著書も残していますから、そのことが窺い知れる。
山根「あまりにアメリカ的。」
巽「アメリカ的なんですよね。そんな堂々たる人物の曾孫だと思うと、なかなか面白くて、何度思い出しても笑ってしまう。」
11.日本の冷戦、アメリカの魔女狩り
山根「冷戦期といえば、その話もありますよね。」
巽「あの内ゲバはやっぱり強烈だったですよ、仲間同士で殺しあうっていうのは。なんでそんなことになるのか分からなかった。ずっとテレビを喰い入るように観ていた記憶がある。だけど、そのあとね、結構SF の同人誌でいろいろ書いていた縁で、思わぬところから電話がかかってきたんです。それが、ミステリ作家として『バイバイ、エンジェル』(1979 年)でデビューしたばかりの笠井潔さんだったんですね。論文が読みたいから同人誌を買いたいんだけどって電話がかかってきた。ちょうど私の家は恵比寿で、笠井さんが当時住んでいたのは中目黒だった。地下鉄日比谷線で一駅の近さです。だから、それじゃお届けしますよって言って、中目黒のマンションを訪問して、いろいろ話したわけです。そうしたら、以後は笠井さんが私を文芸評論家のサークルに招いて色々紹介してくれるようになりました。大学院博士課程の頃、ちょうど慶應に勤めるか勤めないかの頃ですね。渡部直己とか、絓秀実とか、川村湊とか、当時売り出し中の新進批評家たちと知り合って、研究会に来てくれって言われてね。そうこうしているうちに、笠井さんが、連合赤軍事件を起こしたのは自分だったかもしれないと発言し、『テロルの現象学』(作品社,1984 年)っていう本を出すわけですよ。これは理論的には非常に面白い本で、本人は自分にとっての脱構築なんだって言っているけども、結局何故ああいう左翼的な共同体が、ユートピアニズムを掲げながらも内部から瓦解するのか、そのメカニズムを明快に論じたものでした。自前の理論で、非常に、明確に述べられている。あれはね、元々は『暗殺の現象学』っていうタイトルで雑誌に連載されていたんです。一つのユートピアに突き進むときにはやはり、どこかで観念が倒錯して内部に異端者が出ると、どうしても粛清にかからざるを得ない。党派性を深く思弁する笠井理論は、理想に向かうはずの観念がどこかで倒錯し逆転してしまう論理をみごとにあぶり出していた。ユートピアを目指すベクトルなのに、ちょっとでも矛盾が出てくるとネガティブな方向に捻じれが生じざるをえないという、これはじつに洞察力あふれる理論でした。」
山根「ディストピアみたいなものですね。」
巽「ディストピアの概念そのものがすでにユートピア内部に孕まれているわけですよ。連合赤軍事件っていうのは、セイラムの魔女狩りと同じなんじゃないのかって直観したんです。もちろん、私の本ではそのように明記はしていません。けれど、同じように思えたんです。というのも、当時17 世紀末のアメリカはまだ植民地で、イギリス側からガンガン税金とかむしられてて、植民地側は抵抗したかった。だけど軍事力も経済力もないし、それからなんといってもまだ、魔女を信じているくらいだから、科学技術力もなく迷信に支配されているわけですよね。まだ近代化されていない。だから、どうしても何か植民地でい ろいろ矛盾が生じると、イギリスに直接打ち返すんじゃなくて、内部の粛清になる。魔女っていうのはそういう過程で一種のスケープゴートとしてつくられたんじゃないか。外へ打ち返せないから、内側に犠牲者をつくっちゃうシステムなんじゃないか。この発想は、今日に至るまでゆらいでいません。その一方で、イギリスの圧力に対して打ち返す力がついてきたのが18 世紀で、そこでアメリカ独立革命になり、みごとに成功する。そういうことから考えると、独立革命とセイラムの魔女狩りは、構図が非常に似ているんですよ。セイラムの魔女狩りは挫折した独立革命であり、独立革命はセイラムの魔女狩りのリベンジだったんじゃないかな。」
山根「そのメタファーが、冷戦期の日本の連合赤軍。」
巽「連合赤軍は、ユートピアニズムは抱いていたけれども、打ち返す力がなかったんでしょう、体制に対して。」
山根「何しろ学生ですからね。」
巽「それが内部の血の粛清になるしかなかったという結末、あれは本当にショッキングだったんですよ。だってこの人たち、理想に燃えて日本国に革命を起こそうとしていたんじゃないのって、子供心に思うじゃないですか。なのに、なぜ自分たちで殺しあったのか、なぜそれが起こるのかって高校生だった私には非常に不可解だったんですが、やはりそれは、のちにアメリカ文学を専攻し、アメリカ史の結節点と言うべきセイラムの魔女狩りを研究してようやく腑に落ちたんですね。だから、あの論文(「冷戦以後の魔女狩り」)を書くときにも、1972 年の高校時代、毎日のようにテレビでやっていた浅間山荘事件の光景が何度となく蘇ってきた。あのころ、リアルタイムでずーっと連合赤軍報道を観ていました。あまりにも不可思議で目が離せなかったんですよ。」
山根「それは生々しい冷戦の記憶ですね。」
巽「冷戦時代の精神そのものでしょう。」
注
1. Tatsumi, Takayuki“. An Interview with Darko Suvin.”Science Fiction Studies, vol. 12, part 2, no. 36, July, 1985, http://www.depauw.edu/sfs/interviews/suvin36interview.htm.
2. Delany, Samuel R. Silent Interviews on Language, Race, Sex, Science Fiction, and Some Comics, 1994. 概略は下記。https://muse.jhu.edu/book/88.
3. Mizumura, Minae.“Renunciation.”Yale French Studies, no. 69, 1985, pp. 81–97.